なぜ城に“天守閣”ができたのか?その由来と役割を解説
日本の城といえば、まず思い浮かぶのが天守閣。堂々とそびえるその姿は、日本の歴史や文化の象徴ともいえます。
しかし、この「天守閣」は最初からあったわけではありません。では、いつ・なぜ天守閣が作られるようになったのでしょうか?
◆ 天守閣が登場する前の城とは?
天守閣が登場する前の城、つまり室町時代や戦国初期の城は、主に「山城(やまじろ)」と呼ばれる防衛重視の構造でした。
高い山や丘の上に築かれ、敵の侵入を防ぐことが最優先。建物も簡素で、いわゆる“見せる城”ではありませんでした。
代表的な例は「観音寺城」や「小谷城」など。これらの城には、のちに見られるような立派な天守閣は存在していません。
◆ 天守閣のはじまりは「安土城」から
日本で最初に「天守閣」と呼べる建物が登場したのは、1576年(天正4年)に織田信長が築いた「安土城(滋賀県)」です。
安土城の天守は5層7階建てという壮大な構造で、金箔をあしらった内装や宗教画など、まさに当時の常識を覆す豪華さでした。
この天守は単なる軍事施設ではなく、「織田信長の権力と威光を示すシンボル」としての意味を持っていました。
つまり、安土城の天守閣は「守るための城」から「魅せるための城」へと変わる転換点だったのです。
◆ 天守閣が広まった理由
信長の安土城に影響を受けた武将たちは、こぞって自分の城にも天守を設けるようになりました。
豊臣秀吉の「大坂城」や徳川家康の「江戸城」などは、まさにその代表です。
この流れには、以下のような理由がありました。
- 権力と威厳を示すため:天守は大名の力を象徴する建物として重要視された。
- 支配地域を一望するため:高い場所から城下や周辺を見渡すことができた。
- 儀礼や政務の場として:一部の天守は、戦の拠点というよりも政治的・儀礼的な役割を持った。
つまり、天守閣は「権威の象徴」としての意味が非常に大きかったのです。
◆ 天守閣の構造と特徴
一般的な天守閣は、以下のような特徴を持っています。
- 最上階に「望楼(ぼうろう)」と呼ばれる展望スペースがある
- 外観は3〜5層程度だが、内部はそれ以上の階数を持つこともある
- 屋根の形は入母屋造りや唐破風(からはふ)など、装飾性が高い
- 鯱(しゃちほこ)などの飾りが設けられる
これらの構造は、戦いのためというよりも美観と象徴性を重視した設計であることがわかります。
◆ 江戸時代になると天守閣の役割は変化
江戸幕府が成立すると、大規模な戦争が減り、城は政治の中心地としての役割を担うようになります。
この時代の天守閣は、実際に使われるよりも「象徴として存在する」建物になりました。
実際、多くの藩では財政難や幕府の規制により、天守を再建しなかったり、あえて作らなかった例もあります。
たとえば、広島城や名古屋城のような大名クラスの城には天守がありますが、藩の規模によっては存在しない場合もありました。
◆ 現存する天守閣はわずか12城
現在、日本に“当時のまま”現存している天守閣は全国でわずか12城しかありません。
戦火や地震で多くが焼失し、現代に残るのは貴重な文化遺産です。
代表的な現存天守は以下の通りです:
- 姫路城(兵庫県)
- 松本城(長野県)
- 彦根城(滋賀県)
- 松江城(島根県)
- 犬山城(愛知県)
これらの城は「国宝天守」としても指定されており、戦国から江戸へ続く建築技術と美学を今に伝えています。
◆ まとめ:天守閣は「権力の象徴」だった
- 天守閣は戦国時代後期に登場し、安土城がはじまり
- もともとは防衛よりも権威・美観を重視した建物
- 江戸時代には実用性よりも象徴的存在としての意味が強まった
つまり、天守閣は「守るための城」から「示すための城」へと進化した存在。
その華麗な姿は、戦国武将たちの誇りと野望の結晶だったのです。


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